ローカルで見たソ連
2024年12月18日
『続・徒然日記』
葉山 明彦
私はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)という国に、若い時に一度行ったことがある。それもモスクワとかレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)といった主要都市でなく、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(以下ロシア、現・ロシア連邦)の極東にあるハバロフスク、そこを経由して行ったソ連構成国(15共和国)のウズベク・ソビエト社会主義共和国(以下ウズベク、現・ウズベキスタン共和国)、タジク・ソビエト社会主義共和国(以下タジク、現・タジキスタン共和国)という中央アジアの国である。1980年10月に仕事ではなく、遅い夏休みを取って専門旅行会社のツアーで行った。20代半ばの若さだったので見るもの感じるものすべてが新鮮だったが、それまで行った米国やアジア諸国に比べ微妙な違和感を感じた。今回はいまはなくなったソ連、それも地方都市で体験したソ連を、当時のメモと写真を追いながら記憶を甦らせてみる。
写真①ツボレフ153型機でソ連へ(新潟空港)
ソ連についての説明はここでは省くが、私が行ったのはモスクワオリンピックの数カ月後。日本ほか西側諸国が前年のソ連アフガニスタン侵攻を理由に参加しなかった大会だ。ソ連はその11年後に崩壊するが、少なくともこの年は外貨獲得ほかの理由で外国人観光の受け入れに前向きだったと想像できる。
機内で洗礼
経路は新潟から空路でハバロフスクに飛び、そこで1泊(帰路も1泊)。それからソ連国内航空に乗ってシベリア中央部のノボシビルスクを経由しウズベクのタシケントに行った。その後はシルクロードの主要な歴史都市をバスや飛行機で回った。まず洗礼を受けたのはソ連国営航空の飛行機の中だ。機内食がおいしくないのは折り込み済みだったが、コーヒーに添えられた平板状の角砂糖が石のように固く、溶けないどころか噛むと歯が折れそうな固さだった。そしてハバロフスク空港着陸ではドドーンドンと響いて置いているものがみな宙に飛び、驚くような衝撃を受けた。こんな強烈な着陸は後にも先にも今日までなかった。不確かだが、席の近い人がパイロットは軍人上がりだから荒っぽいのだと言っていた。降りた空港では日本で見ることのできない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の航空機があり、異郷感を増した。
入国にはビザが必要だが、短冊を何重にも折り曲げたように組み、それにスタンプが押印され、パスポートにホチキスで留めてある。出入国や訪問都市ごとに1枚ずつ切り取り、最後に出国すると短冊はすべてなくなって、パスポートにソ連に行った証拠が残らないという不思議なビザだった。ソ連の外国観光客対応はインツーリストという国営旅行会社が一手に扱い、日本語堪能なロシア人女性ガイドが就いた。宿泊もインツーリスト指定のホテルしか泊まれず、モスクワ五輪の後だからか我々はどこも設備のよいきれいなホテルに泊まれた。客室各階にはデジュールナヤという鍵を預かる年配女性の管理者が一晩中エレベーター前のデスクにいて出入り客を管理し、ある意味で監視なのだが治安は万全だった。ただ、ホテルの人にわからないことを英語で聞くと、それは私の担当ではないと冷たくあしらわれることが多く、この辺が末端とはいえソ連官僚主義の側面を感じた。
写真②デジュールナヤ、鍵の管理のほか手紙やクリーニングの扱い、起床のよびかけなどもしてくれる
はいているGパンを売ってくれ
食事はロシアではボルシチや肉料理、中央アジアも柔らかいケバブやうどん、秋なのでメロンやスイカなどフルーツが豊富で、それなりに食べられたが、思い出に残るのが黒パンだ。日本でも食パンを2~3日放置するとカチカチに固まるが、そんな状態の黒パンが毎回出され、初めは何これと思ったが、仕方なく食べているうちに不思議と味わいのよさが感じられるようになった。もう一つは白樺の木のジュースだ。薄白の透明な甘い水でそんなに美味いものではないが、これもだんだんと舌に馴染むようになった。
ハバロフスクのホテルで地下のバーに行ってみると、広いホールのような場所に音楽が流れ、照明は明るくないのだが客がダンスを踊っている。片隅にカウンターがあり、そこに座って酒を飲んだ。酒はウオッカのほかウイスキー、ワインとありカクテルも頼めたが、つまみはアムール川で獲れたブラックキャビア(チョウザメの卵)とレッドキャビア(イクラ)があるという。値段の安いレッドキャビアを頼むと出てきたのは缶詰で、ジョキジョキと缶を切り、そのまま供された。社会主義下のサービス性とはこんなものかと実感した。
写真③インツーリスト・ホテル・ハバロフスクの地下のバー
物資の流通性では、生活必需品は概して市中に出回っているもののぜいたく品はなく、若者が日本製の電気製品、米国のGパンなど外国品に魅力を感じるのはどの国も同じだ。サマルカンド(ウズベク)のバザールで若者が寄ってきては身に着けている時計、カメラを売らないか、はたまた私がはいているGパンまで売らないかと言われたのには面食らった。日本からチップ代わりになればと持って行った使い古しの100円ライターを、人前で発火実演して見せ1ルーブル(公定レートで340円前後=注)でどうだというと、7~8個があっという間に売り切れた。
厳しい統制
この売買は実をいうと違法だ。外国人旅行者は許可なく民間人と商売をしてはならず、厳しい統制下でバレれば何がしかの罰が下っただろう。私は郵便局で土産のつもりで安価な切手を数シートを買ったのだが、この旅が終わるハバロフスク空港での出国時に荷物検査を行った官吏から切手をどこで買ったのかと怖い顔をして聞かれた。郵便局だと答えたがしつこく2~3回問答の末、領収書を見せてやっとOKとなった。もし民間から買ったと疑われたら没収は免れなかっただろうし、ともすれば罰金が徴収されたかもしれない。
外国製品に話を戻すと、タシケントのスーベニアショップのような店では日本で当時3~4万円ほどの日本製ラジカセが高関税なのだろう2000ルーブル(公定レートで68万円ほど)となっていたのには驚いた。いまのウズベキスタンは旧ソ連の11国で構成するCIS(独立国家共同体)のメンバーとはいえ、旧西側と自由に貿易を行っており、そんなことはないと思う。
何もない国境もいまは昔
もう一つ特筆すべき点をあげるとすれば、旧ソ連内での国境通過だ。私はウズベクのサマルカンドからタジクのペンジケント遺跡を観光するのにバスで両国の国境を越えた。ただ、国境とはいえ道路の脇にここから右がサマルカンド、左がペンジケントと書かれ、握手する画の道標があるだけで、検問所どころか道路に線すら引いてなく誰もいなかった。ソ連崩壊後、両国はそれぞれ独立したが、タジキスタンが内戦に突入して両国関係が悪化、それに伴いこの国境も厳重な検問所や事務所が設けられた(あるいは封鎖された)と想像できる。
写真④ウズベク/タジクの国境は何もない(中央が筆者)
この旅行の目的は中央アジアの名所や歴史遺産の観光だったが、地方都市や構成する周辺国などローカルの視点からいまはなきソ連の社会主義、官僚主義や統制、非商業性、流通性などを垣間見ることができ、振り返ると貴重な体験であった。
(注)ガイドによるとハバロフスクの例だが当時の月平均賃金は180ルーブル、アパートの家賃がガス・水道料金込みで4人家族モデル30平方メートルで4.2~4.5ルーブルで、「ソ連は世界一安い」(ガイド)と言っていた。