旅するお荷物

物流目線で見る一帯一路(その①)

2024年11月20日

『旅するお荷物 vol.3
大原 欽也


【物流目線で見る一帯一路】

周知のとおり、一帯一路とは中国が主導する経済圏構想であり物流網なわけです(図表1)。それをあえて物流目線といったのは、一帯一路が政治的局面で語られることがあまりに多いと感じるからです。そこで、あえて物流オンリーの視点から一帯一路を評価してみようと思いました。要は、一帯一路の使い勝手はどうなの、ということです。

図表1:一帯一路 (T.ミラー:中国の「一帯一路」構想の真相, より)

【シルクロードの誤解】
さて、これも周知のとおり、一帯一路はかつてのシルクロードの再現ともいわれます。何やら壮大な計画ですが、果たしてかつての繁栄を再現できるものなのか、再現というからには今は衰退しているわけで、それなら衰退の原因は何なのか、そもそも繁栄していたのか。つまり、一対一路の評価の前に、先ずはかつてのシルクロートの勃興と繁栄そして凋落について見ることが必要でしょう。

シルクロードは、ユーラシア大陸を東西に走る交易ルートでした。しかし、実際には、一気通貫の道路があったわけではなく、草原や砂漠を縦横に移動していた網目状のまさに交易網でした。その多くは、道なき道というようなものでした。

一応、現在のモンゴルのステップ草原を通る草原の道、それより南の砂漠地帯を通るオアシスの道、そしてインド洋を通る海の道と、3つに分類されています。とはいえ、それらが独立していたということでも無いようで、地形的特徴で上中下に分けられる、ということかもしれません。

図表2:古代シルクロード (T.ミラー:中国の「一帯一路」構想の真相, より)

あらためて陸上ルートを俯瞰すれば、現在の中国長安あたりからペルシャ付近までの東西交易と見做しがちです。そして、東西両極の間にはほとんど何もなくて、途中オアシスで休憩を取りつつ砂漠を横断し草原を超えてキャラバンは行く、というような。しかし、そんなことがなぜできたのでしょうか。つまり、広大な空白地帯をどうやって移動できたのでしょうか。例えば、長安からテヘランまで、直線距離で5,000kmを超えるのです。

【シルクロードの実態】
なぜできたかというと、間が空白地帯ではなかったからです。つまり、そこに多くの民族が繁栄していました。そしてその域内で独自の交易をおこなっていたのです。域内交易の一部として、東西の端部を結ぶシルクロード交易もあった、ということです。交易の方法についても、一群のキャラバンだけで運んだだけでなく、バケツリレー式もあったようです。いずれにしろ、域内の交易に携わる人々が東西交易を支えていて、逆に言えば、それがなければシルクロード交易も実現し得たかどうかは疑問の残るところです。

しかし逆に、シルクロード交易が盛んになったからこそ、つられて域内交易も盛んになったのではないか、と思われるかもしれませんが、恐らくそれはない。なぜなら、域内交易の規模がシルクロード交易の規模よりかなり大きかったと思われるからです。ここら辺は、域内の遺跡等の規模に対して東西交易の物品量から、判断した結果です。そもそも、シルクロード交易で運ばれたのは、絹をはじめとする奢侈品なので、物量自体が多くなかったはずです。やはり、域内交易に支えられたシルクロードとみるべきでしょう。

シルクロードの名付け親は地理学者F.リヒトホーフェンですが、過去への郷愁を喚起する名前に、皆イメージを膨らませすぎたということはないでしょうか。ところで、見渡す限り草しかない内陸の地が繁栄したのは何があったからなのでしょうか。それは、言ってみれば人為的食物連鎖とでもいえるような事象の結果です。

【中央ユーラシアで起こったイノベーション】
始めは、人はまばらにしか住んでいませんでした。そこへ、紀元前3~4千年頃、西から牧畜の技術がヤギやヒツジを連れてやってきました。これがそもそものきっかけです。草原では肉食動物に対し身を守る術を持たない比較的大型の草食動物ですが、人間が守ってやれば捕食されることはないし、食物の草は溢れかえるほどあるのです。

そして、ここがポイントなのですが、人間は草を食べないけれど、ヤギやヒツジを食べるということです。ヤギが草を食べ、人間がヤギを食べる、というような食物連鎖が出来上がりました。それだけでなく、乳は飲んだりヨーグルトにできるし、皮はなめして衣服や絨毯にできました。

人間は草原を家畜と一緒に移動していくだけで、増えていきました。つまり、家畜という「化学変換機」が人間の増産に直結したのです。牧畜というイノベーションによって、彼らは遊牧民になったのです。

しかしながら、それだけでは遊牧生活を成り立たせるのは困難でした。草原は見渡す限り広がっているとはいえ、飼育する人間の移動能力が限られるのです。そこで、彼らは野生の馬に目を付けました。ヤギが家畜にできるのなら馬だってできるだろうという大胆な発想でやってみたら、実際にできてしまいました。要は、歩くのが大変ならば、馬に乗って移動すればよいということです。

じつは、家畜化できるかどうかは、その動物の本来の特性に依存するのだそうで、例えば、馬は家畜化できるのですが、シマウマはどうやっても無理なのだそうです。たまたま家畜化できる馬がいたおかげでその後の未来が開けたのでした。ヤギとは違う目的の、馬の家畜化というイノベーションによって、食料が増産されました。

そしてどうやらこのころ、人類史上最大のイノベーションの一つである銜(はみ)・轡(くつわ)・鞍(くら)などの馬具が開発されたようです。これで、馬上で安定するだけでなく、自在に制御できるようになり、高速移動が可能になりました。今や老若男女みな馬で移動するようになり、行動範囲が格段に増えたのです。

そうなると、今度は草原の広さが限界に達します。つまり、他部族との軋轢が生じました。その結果は戦闘だったりしました。そこで彼らは、なんと馬に乗ったまま戦う方法を編み出しました。騎乗での戦闘力は凄まじかったようで、敵の歩兵をまさに蹴散らしました。馬を戦車にするというイノベーションによって、遊牧民は騎馬民族にバージョン・アップしたのです。

やがて騎馬民族同士も離合集散しつつ統一され、その戦闘力でもって中央ユーラシアを支配してしまいました。以上、考古学的史実に私の推測をトッピングしつつ、中央ユーラシア史の再現を試みました。
(次月へ続く)

◆出典元
・ヴァレリー・ハンセン:図説シルクロード文化史
・森安孝夫:シルクロード世界史
・フィリップ・D・カーティン:異文化間交易の世界史
・トム・ミラー:中国の「一帯一路」構想の真相
・福田邦夫:貿易の世界史
・進藤 榮一, 他:一帯一路からユーラシア新世紀の道
・宮脇 淳子:モンゴルの歴史

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