続・徒然日記

とんでもコンテナ乗船記

2022年8月23日

『続・徒然日記』
葉山 明彦


故・小泉武衡氏が主宰をしていた徒然日記を引き継ぐ形で、岩崎仁志氏のもと続・徒然日記が始まったのを機に私に執筆の声がかかった。当方、40年近くにわたり記者・編集者を務め、国際物流総合研究所にも在籍した経緯がある(文末のプロフィール参照)。小泉氏は多方面に有識の文才優れた方で、毎回品位ある文章を拝読していたので私も恐れ多い気がしたが、岩崎氏の勧めでお引き受けした。岩崎氏は若き記者時代に同じ記者クラブにいた他紙の仲間で、今や物流コンサルタントの第一人者として活躍されている。岩崎氏からコラムに書くテーマは自由、まずは(仕事分野であった)国際系の話でもどうかと言われたので、当面は記者時代の取材の逸話や裏話などを書こうと思う。

前置きが長くなったが今回は、今はもう時効なのでよいだろうと思う変な話を書く。私は1980年代半ばに大手外国コンテナ船社が世界一周航路を始めるに当たり、その第1船に乗船取材したことがある。コンテナ船の大きさは約2700TEU積み。いまや2万TEUのコンテナ船が新造される時代なのでなんと小さい船と驚くだろうが、当時としては大きな方で、しかも最新鋭の近代化設備を備えて17人定員で運航するという超省人化船だった。これをリポートする私は東京・大井で出国手続きを終え、大井コンテナ埠頭から大阪、韓国、台湾、香港を経てシンガポールまで2週間程度の船旅に臨んだ。ところが乗った当日、キャプテンから君はコレラの注射は打ったのかと問われ、打ってないと答えるとそれなら大阪で下りろと言われた。乗船前、船会社の事務方と綿密に打ち合わせし、該当国・地域は日本人の場合、イエローカードは不要との答えをもらっていただけに大慌て。キャプテンによると貨物船の場合、乗員全員がコレラ注射をしていなければ、船内にネズミがいないという証明書を港に提出しなければならない、それは事実上不可能なので注射が必要だという。1等航海士に相談すると、大阪に寄港した時に1日時間があるので、下船して保健所に行けばよいと諭されまずは安堵した。

翌日大阪に着くと、隣に停泊する外国船の船員に骨折者が出たのでそれを迎える代理店の車に同乗しろという。いわれるままその負傷者と車に乗り、入管も税関も通らず市内の医院へ。場所がどこなのかまったくわからないが繁華街の近くだった。私は予防注射を打ってイエローカードをもらうだけなのですぐに終わったが、骨折した外国人は手当てに時間がかかっているようで、代理店の人から繁華街のこの路地に1時間後と待ち合わせをした。さて何をして過ごそうかと思っていると、目の前にパチンコ屋があった。ひまつぶしにちょうどよいとばかりパチンコに興じると出るわ出るわ、1時間があっという間に過ぎた。それなりの成果で待ち合わせの路地に戻り、車で船に戻ったのだが、待てよ、私は既に出国の身で出入関を経ず国内に居てはならないはず。医院へ行ってパチンコ屋に行ったが、不法滞在だったわけでこれは苦笑の反省も後のまつりとなった。

この乗船取材ではもうひとつ、すごい体験をした。各国の取材も順調に終え、コンテナ船が香港を出港する時のことだ。私が前日、代理店の方に港に停泊していると本船全体の写真をとりにくいのでどこかよい場所はないかと言ったところ、なんとタグボートを用意してくれた。タグボートは船舶・水上構造物の押曳航や大型船離接岸の補助に使われる。小さいながらものすごい出力のエンジンを備え、岸や船に接触するため周りに古タイヤを装備している。タグボートは早いから海上を走るコンテナ本船を自在に撮影すればよいという。なんともスケールの大きな話だが、出航後の本船にどう戻るのかと尋ねるとタグボートを本船に寄せるのでそこから乗り移ればよいと笑顔で返された。両方とも走っている船でそんなことは可能なのかとやや不安を持ったが、既に話は決まっていて私はその流れに乗った。

用意されたタグボートは本船が出航後、私を乗せて本船の前後左右を自在に走航し、私は海上のコンテナ本船をさまざまな角度からふんだんに撮影することができた。そしてタグボートが航行中のコンテナ本船の側面に接近すると、本船のはるか上から縄ばしごが水面に垂れ下がってきた。え~、これを登れというのか、ビルの6~7階ほどの高さがあるではないか、しかも海上をそれなりの速度で走っているコンテナ船にである。当時の要を得た言い方をすれば「千葉真一ばりのアクション劇」である(既に時代が違うので若い読者には失礼)。そうは言ってもここまで来たら登るしか生きる道はない。私は必死に登ったが動く縄ばしごに苦戦、まん中あたりまで来ると息が切れる。腕も痛くなってきた。それでも本船は勢いよく走る。落ち着いて一息入れ、最後の力を振り絞ってデッキまで来ると、船員たちが両腕をつかみ引き上げてくれた。助かった。まったく危険な“仕事”だった。

この2つの出来事は今の時代ならありえないことだが、それがあったのも昭和であり、20世紀終盤の発展する東アジアだったからかもしれない。本船はその後シンガポールに到着し、私は何もなかったようにフライトで無事、帰国することができた。

著者プロフィール

葉山明彦

国際物流紙・誌の編集長、上海支局長など歴任

40年近く国際関係を主とする記者・編集者として活動、海外約50カ国・地域を訪問、国内は全47都道府県に宿泊した。

国際物流総合研究所に5年間在籍。趣味は旅行、登山、街歩き、温泉・銭湯、歴史地理、B級グルメ、和洋古典芸能、スポーツ観戦と幅広い。

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